長尾一族の長尾政景は新潟県魚沼郡坂戸城主であった。謙信二十二才の時、一度謀反を起こしたが謙信はただちにこれを征服した。
然し政景が勇気もあり、政治的手腕もあったので処分しなかったばかりか、後に姉と結婚させ其の子景勝を自分の養子にした。
謙信がこれほど信頼している政景だったが、武田信玄と通じて再び謀反を企てているとの噂が謙信の耳にも入った。このことを知った宇佐美定行は、もし政景が謀反を起こせば春日山の団結も危うくなるし、また謙信が政景を殺せと命ずるようなことがあれば、肉親が殺し合う不徳の大将として諸将の信頼を失うことになり、何れにしても上杉家にとっては、由々しき大事であると考え、遂に一策を案じ永禄七年(1564)定行は政景を野尻湖の船遊びに招じた。
定行は政景に「貴殿は信玄と通じ、謀反を企てておるとの噂が謙信公の耳に入っている」と話し、二心なきことを殿に披瀝して身の潔白を証してはといさめたが、政景この諌言に耳をかそうとしなかったため定行は政景の腰帯に抱き付き共に野尻湖に沈み我が身を犠牲にして上杉家の安泰を計った。時に政景は三十九才、定行は七十六才であった。
後にこれを知った謙信公は定行の忠死に感激して宇佐美定行の霊をとむらうため、その具足を埋め、謙信自ら経塚を立て、丁重にとむらったのが後世墓所と口で伝えられてきたものである。(信濃町・野尻湖観光協会)