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津金寺は永禄4年(1561年)川中島の合戦の際、住職善海をはじめ衆徒が武田信玄を応援したことから、旧領の地所を併せて寺領1000石の朱印状が与えられ、信玄が比叡山正覚院に帰依するにあたり、再び天台宗の寺院となりました。
当寺の寺紋は武田菱であり、改宗に関する文書など信玄の文書2通が、今も寺宝として保存されています。また、仁王門の向いには、信玄が川中島の合戦の時、武運長久を祈願し兜をかけたとされる松とそのそばに腰を下ろして休んだとされる石があります。
小林山頼岳寺は、諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院であり、高島藩初代藩主諏訪頼水は寛永八年(1631)上野国最大隻林寺(群馬県北群馬軍子持村)の大通関徹を招いて開創し、諏訪氏の菩提寺とした。
御廟所には諏訪頼重の従兄弟で頼水の父である頼忠とその夫人、頼水が葬られている。
諏訪の覇権を賭け、高遠頼継と信玄が激突した舞台。七百人を超える被害者を出した高遠軍は、杖突峠を越えて伊那に敗走しました。
諏訪頼重の菩提寺として建立されました。頼重の霊を供養する石の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や新田次郎が頼重の無念を詠んだ歌碑を見ることができます。
高遠湖を望む高台にある。勝頼の異母弟仁科盛信(信玄の五男)は仁科家の名跡を継ぎ、高遠城主をつとめていました。天正十年織田信長による武田氏討伐で没しました。(享年二十六歳)同院には位牌が安置されています。
信玄のあつい庇護を受けた名刹。信濃出兵の際には戦勝祈願をしたといわれています。
山門、楼門、鐘楼などが配された寺には、武田家関係の古文書が残されているほか、信玄の遺骨と短刀などが納められた霊廟があります。
真田幸隆が開いたお寺で、昌幸の時代に真田家の菩提寺となりました。
信玄の弟である典廐信繁は、川中島で命を落としました。典廐を葬った塚を典廐塚というようになり、後に典廐寺と名を改め、両軍の戦死者を弔いました。
火縄銃などの資料も展示されています。
読みは「めいとくじ」。武田二十四将のひとり、高坂弾正(こうさか・だんじょう)が再興した寺です。本堂の裏には「蛙合戦」で知られる池。
また、ここには第二次大戦中、硫黄島で散った地元松代出身の栗林忠道中将の墓もあります。
大通寺は慶長四(一六〇一)年、真理姫を妻に迎えた木曽義昌の重臣・山村良勝によって創建されました。
木曽家の屋敷跡に建てられており、境内には真理姫の供養塔がのこされています。
村上義清公に代表される村上氏代々の菩提寺で、村上氏の居館跡に移築されたもの。
しなの鉄道坂城駅下車 徒歩10分。バスの駐車は困難。
耕雲寺は、室町時代末期から安土桃山時代の創建とされ、甲州耕雲寺系といわれている。武田信玄・勝頼の篤い保護を受け、寺名も信玄が名づけたと伝えられている。山門に通じる道には、杉並木が広がる。
しなの鉄道テクノさかき駅下車、車10分。
信玄の側室、勝頼の母・由布姫の供養塔が境内に建つ真言宗のお寺。南信八名所、諏訪八景に数えられている。ご本尊は十一面観世音菩薩。近くの小坂公園はあじさいの名所でもあり、諏訪湖や八ヶ岳連峰が一望できる。
古くからの庶民信仰の寺。天文24年の第二回川中島合戦の後、信玄は本尊阿弥陀如来を甲斐へ、謙信は尊像や仏具を越後へ移した。武田氏滅亡後、本尊は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と渡り、42年後に信濃に戻ったという。寺には、信玄・謙信の位牌が並んで納められている。
境内横の城山公園は、川中島の戦いの折、上杉謙信が本陣とした横山城にちなむ名前。宿坊が並ぶ小道の散策や城山公園内の桜、信濃美術館東山魁夷館もおすすめ。
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